足利義満に明(みん)の皇帝から送られた金印

室町時代(1358〜1408)足利幕府3代将軍。足利尊氏の孫で足利義満(あしかがよしみつ)は幼年10歳で家督を継ぎ翌年将軍となった。義満は26年間将軍職にあって特に政治に励み、美濃の乱、明徳の乱、応永の乱をしずめて幕府の勢力を強固に固めた、義満の働きによって南朝(吉野方)の後亀山天皇が北朝方(京都)小松天皇に御位を譲って南北朝の統一ができた。

さらに義満は元亨以来途絶えていた中国(当時は明)との貿易や国交を再び初めて使節遣唐使を交換した。そのご明において政変がおこり、義満は中国の新皇帝、永楽帝に臣礼とる旨の国書を送った。これに応じて明の皇帝は義満に「日本国王」と呼ばれ中国の冠服と同じに金印を贈与されている。贈与については明実録に乗っており、中国、明の国での他国に与えた中でも最高級の格式の高い物であったと記入されている。「印鑑書印は不明」

足利義満の生活していた家は立派な屋敷で『花の御所』と呼ばれていた。(1397年)応永元年に将軍職を義持ちに譲ったが(1397年)応永4年より翌年にかけて西園寺の北山に自分の住む山荘を造った。京都の金閣寺はその一部の建物といわれている。

義満の造った山荘には名僧、文化人が集い北山文化として栄えているが、このときに義満は『北山文房之印』『天山』の号印鑑蔵印にして使っているが私印としてはもっぱら趣味に使われていたようで特に私文書や手紙に使われていないが将軍としての公式の文章には印を押さず当時流行の花印を押していた。


大内氏の印鑑

室町時代に同じく朝鮮半島に貿易に乗り出したのは西国の守護「山口県」大内氏は朝鮮と貿易を結び独占をしようとしていた。しかし応永の乱で足利義満と戦い破れ、大内義弘が倒れて大内氏は再興できなかったが、大内氏も朝鮮国から日本国王之印を贈与されている。当時使っていた印鑑を見つけましたので記載しておきます。印鑑はその後代々の家の宝となっている。資料不足ため略します。


戦国時代の武将と印鑑